令和 万葉の郷とっとりけん
因幡国守 大伴家持によって、万葉集の最後を飾る歌が詠まれた鳥取県。万葉集ゆかりの地を訪ねてみましょう!
万葉歌人 大伴家持が因幡国(現在の鳥取県東部)の国守に、
山上憶良が伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)の国守に赴任し、
万葉集の最後を飾る歌が
因幡国守 大伴家持によって詠まれた
万葉集ゆかりの地です。
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1因幡万葉歴史館 いなばまんようれきしかん鳥取市万葉集や大伴家持に関する展示があり、因幡万葉の里を楽しめる拠点。四季折々の万葉植物を楽しむことができる。
所在地 鳥取市国府町町屋726 休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日の平日)、祝日の翌日(平日の場合)、12月29日~翌年1月3日 電話番号 0857-26-1780 リンク先 因幡万葉歴史館HP -
2大伴家持歌碑 おおとものやかもちかひ鳥取市万葉集の最後を飾る大伴家持の歌碑。因幡国守として赴任した家持は、天平宝字3(759)年の新年の宴で、新春を寿ぐ歌を詠んだ。
所在地 鳥取市国府町庁 リンク先 鳥取市HP -
3因幡国庁跡 いなばこくちょうあと鳥取市大伴家持が赴任した因幡国府の中心である国庁跡で、平安~鎌倉時代の姿を史跡整備している。
因幡国庁から三方に位置する甑山(こしきやま)、面影山(おもかげやま)、今木山(いまきやま)が一望できる。形の美しい山が3つ並び立つ様が「大和三山」を思わせることから「因幡三山」と呼ばれている。所在地 鳥取市国府町中郷 リンク先 とっとり文化財ナビ -
4岡益廃寺跡(岡益石堂)おかますはいじあと(おかますのいしんどう)鳥取市白鳳時代に創建された寺院で、安徳天皇(あんとくてんのう)御陵参考地となっている「岡益石堂」は寺院の石塔と考えられる。石堂は宮内庁が整備。(駐車場あり)
所在地 鳥取市国府町岡益 リンク先 鳥取市HP -
5梶山古墳 かじやまこふん鳥取市7世紀に築造された古墳で、万葉の時代に都に采女を出した伊福吉部(いふきべ)氏の墓と推定され、石室に彩色壁画が描かれる。壁画の公開は10月。駐車場あり。
所在地 鳥取市国府町岡益 リンク先 とっとり文化財ナビ -
6鳥取県埋蔵文化財センター とっとりけんまいぞうぶんかざいセンター鳥取市鳥取県内の遺跡情報を知ることができ、女子群像板絵の出土した青谷横木遺跡(あおやよこぎいせき)出土品や岡益廃寺跡出土品を収蔵。
所在地 鳥取市国府町宮下1260 休館日 土曜日・日曜日・祝日、12月29日~翌年1月3日 電話番号 0857-27-6711 リンク先 鳥取県埋蔵文化財センターHP -
7伯耆国府跡 法華寺畑遺跡(国分尼寺) ほうきこくふあと ほっけじばたいせき (こくぶんにじ)倉吉市奈良時代に役所としてつくられ、後に国分尼寺に転用された。史跡整備され四脚門の西門が復元されている。(駐車場あり)
所在地 倉吉市国府 リンク先 とっとり文化財ナビ -
8伯耆国分寺跡 ほうきこくぶんじあと倉吉市天平13(741)年の聖武天皇(しょうむてんのう)の発願により全国の国ごとに造営された。塔・金堂・講堂の基壇が整備されている(駐車場あり)。
所在地 倉吉市国府・国分寺 リンク先 とっとり文化財ナビ -
9山上憶良歌碑 やまのうえのおくらかひ倉吉市万葉歌人山上憶良の歌碑。霊亀2(716)年に伯耆国守として赴任し、後に令和元号の典拠となった梅の花の宴にも参加した。土屋文明(つちやぶんめい)の追慕歌碑もある。
所在地 倉吉市国府 -
10倉吉博物館・倉吉歴史民俗資料館 くらよしはくぶつかん くらよしれきしみんぞくしりょうかん倉吉市大御堂廃寺跡(おおみどうはいじあと)・伯耆国分寺等の出土品を見ることができる。前田寛治(まえたかんじ)・菅楯彦(すがたてひこ)などの郷土ゆかりの画家の作品や郷土の歴史・考古・民俗資料などを展示。
所在地 倉吉市仲ノ町3445-8 休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日) 電話番号 0858-22-4409 リンク先 倉吉博物館HP -
11斎尾廃寺跡 さいのおはいじあと琴浦町白鳳時代に創建され、当時の基壇跡が確認できる。法隆寺式伽藍配置に特徴があり、山陰地方唯一の特別史跡。
所在地 東伯郡琴浦町槻下 リンク先 とっとり文化財ナビ -
12粟嶋神社 あわしまじんじゃ米子市国造りの神である少彦名命(すくなびこなのみこと)を祭る古社。粟を蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国へ渡ったと伝えられる地で、少彦名命を詠んだ生石村主真人(おいしのすぐりまひと)の万葉歌碑がある。
所在地 米子市彦名町1404 電話番号 0859-29-3073 リンク先 米子市観光協会HP
大伴家持
(おおとものやかもち)
大伴家持は、奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人で、小倉百人一首では中納言家持として取り上げられています。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、もともと大伴氏は大和朝廷以来の武門の名家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令国家の高級官吏として歴史に名を残し、延暦年間には中納言にまで昇っています。奈良時代において中央政界で台頭する藤原一族に対して、名門氏族の棟梁であった家持は、「反藤原」の動きに関わることも多く、中央官僚復帰と地方官僚への左遷を繰り返しています。
758年(天平宝字2年)に因幡国(現在の鳥取県東部)の国守として赴任し、翌年正月には、因幡国庁で『万葉集』の最後の歌「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)を詠んでいます。長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えていることから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられています。大伴家持は年長の歌人・文化人である山上憶良の影響を強く受けていると言われます(「山上憶良」参照)。従五位上因幡守の時の大伴家持は42歳、正五位下に昇任するのは11年後のことで、決して恵まれた時代ではなかったと思われます。
光仁・桓武天皇の時代に入ると、都の要職や大国の守を歴任する一方で順調に昇進し、780年(宝亀11年)に参議に任ぜられて公卿に列し、やがて先任の参議を越えて中納言に昇進します。784年(延暦3年)には東国の蝦夷征討の責任者となり、翌年には没しているため最終官位は中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍。職務のために滞在していた陸奥国で没したか、在京していたかは不明で、死没地には平城京と多賀城とする二説があります。 没後に藤原種継暗殺事件に関与していたとされて、官籍からも除名されましたが、20年以上経過した806年(延暦25年)に恩赦を受けて従三位に復しています。
略年譜
718年(養老2年)頃 | 生誕 |
---|---|
746年(天平18年) | 越中守 |
754年(天平勝宝6年) | 山陰道巡察使 |
758年(天平宝字2年) | 因幡守 |
759年(天平宝字3年) | 新春を寿ぐ歌を因幡国庁で詠む |
780年(宝亀11年) | 参議 |
783年(延暦2年) | 中納言 |
785年(延暦4年) | 陸奥国で没(藤原種継暗殺事件に関与したとして官籍除名)去 |
806年(延暦25年) | 恩赦により復位、従三位 |
「令和」と大伴家持の関わり
大伴家持は父・旅人が大宰帥として大宰府に赴任する際に従ったという説が有力ですが、当時まだおそらく12、3歳であったろう家持は32人の歌人の中には入っていません。梅の花の宴で歌を詠む父旅人や憶良を少年大伴家持は、まぶしく見つめていたかもしれません。
山上憶良
(やまのうえのおくら)
山上憶良は、奈良時代初期の下級貴族出身の官人であり、歌人として名高い。716年(霊亀2年)4月に伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)の国守として赴任し、約5年間を伯耆の地で過ごしたとされてます。伯耆国赴任中の歌は、確認されていませんが、赴任した間に体験、見聞した伯耆の自然、文化がこの後の歌づくりに影響しているのではないだろうかと考えられています。
山上憶良が晩年に詠んだ歌として代表作の一つである、人々の貧しい暮らしや世の不条理を嘆く貧窮問答歌には「風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒しくあれば 堅塩を 取りつづしろひ…」とあることから、雪降る伯耆を詠んだものではないかという説もあります。
後に因幡国(現在の鳥取県東部)の国守として万葉集の最後を飾る歌を詠んだ大伴家持も山上憶良の影響を強く受けていると言われ、山上憶良の「士(をのこ)やも 空(むな)しくあるべき 万代(よろづよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして(男子として、空しく人生を終わってよいものだろうか。万代の後まで語り継いでいくよう名を立てずに。)」に対して大伴家持は「大夫(ますらを)は 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね(大夫はりっぱな名をたてるべきである。後の世に聞き継ぐ人もまた語り継ぐように。)」と追和しました。
略年譜
701年 (大宝元年) | 遣唐使に任命 |
---|---|
716年(霊亀2年) | 伯耆守に任命 |
721年(養老5年) | 次期天皇 首皇子(おびとのみこ)(のちの聖武天皇)の教育のため、才能ある16名の一人として東宮侍講に任命 |
726年(神亀3年) | 筑前守に任命 |
730年(天平2年) | 大宰府の長官 大伴旅人の邸宅にて梅花の宴に参加 |
732年(天平4年)※推定 | 貧窮問答歌をつくる |
733年(天平5年)※推定 | 74歳にて逝去 |
「令和」と山上憶良の関わり
平成に続く元号「令和」の典拠は奈良時代の古典歌集『万葉集』巻5 梅花の歌32首の序から「令月」「風和」の一字を引いたものです。万葉集の撰者は因幡国守も勤めた大伴家持ですが、この32首は家持の父・大伴旅人が大宰帥(大宰府長官)であった時に自宅で開いた「梅花の宴」で、旅人をはじめとする32人が梅を愛でて詠んだ連作です。32首の4番目に歌を詠んでいるのが、当時筑前守(現在の福岡県)であった万葉歌人・山上憶良。梅花の宴で彼が詠んだ次の歌は梅花の歌32首中の白眉で、憶良の代表作のひとつです。
春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ
山上憶良『万葉集』巻5-818
(春になると最初に咲く屋敷の梅の花よ、私ひとりで眺めながら、ただ春の一日を暮らすことにしよう)
新元号が導かれた、美しい漢文の序文は作者不詳とされています。遣唐使として留学経験があり、漢籍の造詣も深い憶良の作ではないかという説もあります。